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日曜日
2016年 東京オリンピック
もしかしたら、2016年に東京オリンピックが再現されるかもしれません。前回のオリンピックは私が1歳の時でしたから、あまり記憶にありません。実現したら、そのときからオリンピックおじさんになってみたいです。
2016年 東京オリンピック
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JOC(日本オリンピック委員会)
JOC(日本オリンピック委員会)のホームページです。みんなで日本を応援しましょう。「がんばれ、日本」
【JOCの理念】
JOCの使命は、全ての人々にスポーツへの参加を促し、健全な肉体と精神を持つスポーツマンに育て、オリンピック運動を力強く推進することにある。
オリンピックを通じて、人類が共に栄え、文化を高め、世界平和の火を永遠に灯し続けることこそ、JOCの理想である。
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水曜日
末期の古代オリンピック
しかし、この祖国での優勝者への過剰な褒章が、逆に大祭の腐敗を生んだ。祖国が優勝者に支払う報奨金は跳ね上がり、褒章欲しさに、不正を働くもの、審判を買収するものが出て、オリュンピア大祭は腐敗した。買収を行ったものと応じたものは以後の大祭から追放されるだけでなく、多額の罰金が科せられた。この罰金を元に、オリュンピアにゼウス像が作られたが、ゼウス像の数は増える一方だったという。
ローマは途中からギリシア都市国家に混じって参加を許されたが、のちにギリシア全土を征服し、その属州に編入した。ローマによる征服後もオリュンピア祭は続けられたが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために、第211回オリュンピア競技会の日程を本来行うべき65年から無理やり67年に2年ずらした。また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加した。ネロは7種目で優勝したとされるが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに耐えない劣悪なものだったという。ネロの死後、この大会の存在そのものがエーリスの公式記録から抹殺された。このため、この大会をオリュンピア大会と認めない研究者もいる。
最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは、しだいに廃れていった。312年、ローマはキリスト教を認め、392年、国教とした。このときキリスト教以外の宗教は禁じられたため、オリュンピア大祭も禁じられることになった。最後の、そして第293回オリュンピア祭は、翌393年に開催され、これが古代オリンピック最後の年となった。この最後のオリンピックについては、記録が残っていない。記録に残る最後の古代オリンピックは、369年の第287回オリンピュア祭で、それも、拳闘の勝者のみが記録されている。このためこの回を最終回とする研究者もいた。
しかしその後、1990年代になってから、オリュンピアで、末期の361年の第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板が発掘された。それまでは、末期、キリスト教が広まってからのオリュンピアはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えられていたが、青銅板の最後の記録、361年までは、広くギリシア語圏内から競技者が参加していたことが判明した。この青銅板が後世の偽作であると疑う意見もあるが、証拠はなく、ひとまず、これが末期古代オリンピックに関する主流の見方になっている。
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ローマは途中からギリシア都市国家に混じって参加を許されたが、のちにギリシア全土を征服し、その属州に編入した。ローマによる征服後もオリュンピア祭は続けられたが、暴君として知られるローマ皇帝ネロは、自分が出場して勝者となるために、第211回オリュンピア競技会の日程を本来行うべき65年から無理やり67年に2年ずらした。また、自分の歌を披露するため、音楽競技を追加した。ネロは7種目で優勝したとされるが、その競技内容は悲惨で、特に音楽競技は聴くに耐えない劣悪なものだったという。ネロの死後、この大会の存在そのものがエーリスの公式記録から抹殺された。このため、この大会をオリュンピア大会と認めない研究者もいる。
最末期、キリスト教が広まるにつれ、異教ローマ神の祭典であるオリュンピアは、しだいに廃れていった。312年、ローマはキリスト教を認め、392年、国教とした。このときキリスト教以外の宗教は禁じられたため、オリュンピア大祭も禁じられることになった。最後の、そして第293回オリュンピア祭は、翌393年に開催され、これが古代オリンピック最後の年となった。この最後のオリンピックについては、記録が残っていない。記録に残る最後の古代オリンピックは、369年の第287回オリンピュア祭で、それも、拳闘の勝者のみが記録されている。このためこの回を最終回とする研究者もいた。
しかしその後、1990年代になってから、オリュンピアで、末期の361年の第285回オリュンピア祭までの全競技の勝者を記録した青銅板が発掘された。それまでは、末期、キリスト教が広まってからのオリュンピアはエーリスとその近隣諸都市だけで細々と行われていたと考えられていたが、青銅板の最後の記録、361年までは、広くギリシア語圏内から競技者が参加していたことが判明した。この青銅板が後世の偽作であると疑う意見もあるが、証拠はなく、ひとまず、これが末期古代オリンピックに関する主流の見方になっている。
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中期の古代オリンピック
オリュンピア大祭は、エーリス州のゼウスの神殿が建てられたオリュンピアの聖域にある競技場(スタディオン等)で開催された。開催1ヶ月前には開催を告げる使者がギリシア全体を回り、大会開催中の1か月の間は休戦となった。のちに参加都市国家が増えると、休戦期間はオリンピック開催時を含め前後に合計3か月伸びた。この休戦期間をエケテイリアという。この休戦は、オリュンピアに向かう競技者や観客の旅の安全を保障するためであった。ゼウスは旅行者の守護神であり、オリュンピア祭への旅の道はとりわけゼウスによって加護されると考えられた。そして、この禁を破った国はオリュンピア祭への参加が拒否されたほか、他国から外交関係を絶たれることにもなった。スパルタは実際に禁を犯してエケテイリアの時期に他国を攻めたため、オリュンピア大祭に参加できなかったことがある。このほか、オリュンピアをピーサに征服されたエーリスが、オリュンピア大祭開催中にオリュンピアに攻め込んだこともあった。
大祭は初期にはスタディオン走のみで1日で終了した。のちしだいに競技種目も増え、紀元前472年には5日間の大競技会となっていた。参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の自由人男子のみで、女、子供、奴隷は参加できなかった。不正を防ぐため、全裸で競技が行われた。勝者にはオリーブの冠のみが与えられ、それから神殿敷地内に像が建てられた。
競技会は大神ゼウスに捧げられる最大の祭典でもあった。祭りであるので殺し合いは固く禁じられた。格闘技で相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかった。逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られた。格闘技で相手が降参するのと同時に倒れて死んだ勝者に対して審判が冠を授けたという。
審判はきわめて初期はエーリス王が当たったが、競技の数が多くなるとエーリス市民からくじで選ばれた。選ばれた審判たちは、オリンピック期間中、神官として扱われた。審判はエーリスに設けられた専門の施設で競技規則について10か月に渡り専門家から教えを受けた。その間に、続々と各国から選手が集まり、1か月前になると、選手とともに合宿練習をして、練習試合の間にまた規則の確認を行った。予選もここで行われた。
大会直前になると、エーリスからオリュンピアまで全選手、役員が行進した。距離は50キロ以上になる。
競技会初日は開会式兼儀式が行われ、最終日は勝者のための宴が丸1日かけて催された。競技は間の3日間で行われた。
オリュンピアのスタディオン競技は第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走のほか、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技、円盤投げ、槍投げ、レスリング、ボクシング、パンクラティオン、戦車競走などがあった。少年競技の部もあったが種目は少なかった。最終種目は武装競走だった。盾を手に1スタディオンを走って往復する。戦車競走では、勝者への冠は御者ではなく、馬車の所有者に与えられた。このため、女性でオリーブの冠を授かった者が2名いる。体育のほか、詩の競演なども行われた。
女性の参加と観戦に関しては、研究者の間で意見が分かれている。そもそも、競技大祭中は、オリュンピアには女は入れなかった、という説と、神殿と競技場には入れずに、外でテントを張って待っていた、という説と、競技場内でもフィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかった、という説と、未婚女性に限り、競技場観客席での観戦が許された、という説がある。少なくともエーリスの女神官が観戦していたことだけは確からしい。女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされる(実質的には死刑)というルールであったが、記録に残る限り適用例はなく、象徴的なルールであったとも考えられる。
オリーブの冠を授かった者は、神と同席することを許された(競技会後、オリュンピアの神殿敷地内に優勝者の像がつくられることに由来する)者として、故郷で盛大に迎えられた。祖国の神殿に像が作られた競技者もいるし、税が免除されることもあった。いずれにしても祖国の歴史に永遠に名が刻まれることになった。
大祭は初期にはスタディオン走のみで1日で終了した。のちしだいに競技種目も増え、紀元前472年には5日間の大競技会となっていた。参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の自由人男子のみで、女、子供、奴隷は参加できなかった。不正を防ぐため、全裸で競技が行われた。勝者にはオリーブの冠のみが与えられ、それから神殿敷地内に像が建てられた。
競技会は大神ゼウスに捧げられる最大の祭典でもあった。祭りであるので殺し合いは固く禁じられた。格闘技で相手を殺した勝者には、オリーブの冠は贈られなかった。逆に、勝者であれば死者であっても冠が贈られた。格闘技で相手が降参するのと同時に倒れて死んだ勝者に対して審判が冠を授けたという。
審判はきわめて初期はエーリス王が当たったが、競技の数が多くなるとエーリス市民からくじで選ばれた。選ばれた審判たちは、オリンピック期間中、神官として扱われた。審判はエーリスに設けられた専門の施設で競技規則について10か月に渡り専門家から教えを受けた。その間に、続々と各国から選手が集まり、1か月前になると、選手とともに合宿練習をして、練習試合の間にまた規則の確認を行った。予選もここで行われた。
大会直前になると、エーリスからオリュンピアまで全選手、役員が行進した。距離は50キロ以上になる。
競技会初日は開会式兼儀式が行われ、最終日は勝者のための宴が丸1日かけて催された。競技は間の3日間で行われた。
オリュンピアのスタディオン競技は第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走のほか、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技、円盤投げ、槍投げ、レスリング、ボクシング、パンクラティオン、戦車競走などがあった。少年競技の部もあったが種目は少なかった。最終種目は武装競走だった。盾を手に1スタディオンを走って往復する。戦車競走では、勝者への冠は御者ではなく、馬車の所有者に与えられた。このため、女性でオリーブの冠を授かった者が2名いる。体育のほか、詩の競演なども行われた。
女性の参加と観戦に関しては、研究者の間で意見が分かれている。そもそも、競技大祭中は、オリュンピアには女は入れなかった、という説と、神殿と競技場には入れずに、外でテントを張って待っていた、という説と、競技場内でもフィールドに立ちさえしなければ実質的には咎めはなかった、という説と、未婚女性に限り、競技場観客席での観戦が許された、という説がある。少なくともエーリスの女神官が観戦していたことだけは確からしい。女人禁制の掟を破ったものは、崖から突き落とされる(実質的には死刑)というルールであったが、記録に残る限り適用例はなく、象徴的なルールであったとも考えられる。
オリーブの冠を授かった者は、神と同席することを許された(競技会後、オリュンピアの神殿敷地内に優勝者の像がつくられることに由来する)者として、故郷で盛大に迎えられた。祖国の神殿に像が作られた競技者もいるし、税が免除されることもあった。いずれにしても祖国の歴史に永遠に名が刻まれることになった。
